僕自身の時間だけは周りと比べてはるかに遅い。つまり、周りの何もかもが速すぎるのだろう。従って加速度的な変化を経験するのは自分以外の社会や文化であって、僕はその何者でもない。「同じ」であることはある状況に限って言えば恐怖でしかないということだ。つまり、僕は何を言いたいのか?
 外へ一歩踏み出せば、すべては動き回るだけの騒がしい世界であり、進歩とはまさにこの歩みを絶やさないことだ。しかし、歩みを絶やさぬことだけが人間の脳ではなかろう。
みんなと「同じ」服装に身を包み、「同じ」ように笑い、「同じ」ようにケータイをいじり、そして「同じ」ように死んでいく。でも僕はどうしても「同じ」にはなれないし、もちろんそういう努力もした。
 差別、紛争、民族対立、貧困などの発生原因はすべて大国の論理に従った結果であり、そういう国の人々はまた違う意味で「同じ」なのである。このような場合は仕方なしの「同じ」であるのに対して、永遠に切っても切れない関係なのだ。
「同じ」であることを嫌う人々は革命の拳を振り上げる。革命とは一瞬のあいだの出来事だ。日本は、明治期に都合のいい文明を勝手に受け入れただけで本当の意味の革命などない。革命では一瞬のあいだにこれまで築き上げたものが後片もなく粉砕される。革命によって築き上げたものは時間に取って代わられる。時間が傷ついた文明の緩衝材となり、やがて大国の論理に従って「同じ」ところに落ち着く。「同じ」であることは簡単なようでいてほとんど不可能に近い。
 闘争(もしくは抗うこと)することこそが人間の本来の姿であり、普通何もかもが「違って」当たり前なのである。「違って」いることが可笑しいことだと後ろ指を指されるのが嫌だから、、わざわざ金を払ってまで「同じ」になろうなろうとする。「同じ」であることは善いことなのか。悪いことなのか。今日は街を歩いていてそんなことを考えた。