宮城県でのヴォランティア活動では、いろんな仲間ができました。ていうか作業などを通じて、いろんな人と自然に仲良くなれるんすけどね…。今回は、個人宅が中心で、泥かきとか庭の清掃とか、出来るだけのお手伝いをさせていただきました。また、夏休みにでも行ってみようと思います。他の人も誘って。


っで180度転回させていただいて…。4年生ということで、今就活やってるんすけど、ぜーんぜん決まりません。
文章力には自信があるので、エントリーシートはあまり落ちませんが、面接のコミュニケーション力で落とされます。ってか、何の実務経験もない学生に、志望動機を求めても全部似たり寄ったりになると思うんですけど…。結局、どんな御託を並べても(言葉使い悪いね)、「経験ないんでしょ、君」っていう圧力的なものが…。


どんな屁理屈言ってても、仕方ないですね。とにかく、やるだけのことをやるだけです。毎日。どんだけ落とされても、どんだけ周りが内定もらったりしていたとしても、その人はその人。就活には、人それぞれペースがあるもんね。

これからご紹介したいのは、現地で撮影してきた写真です。津波で壊滅的だった沿岸部の寺島地区という地域です。かりに被災地区にお住まいの方々がいらっしゃれば、どうかお許しください。


あらかじめ申し上げておきますが、こちらに画像を公開することによって、被災地区を貶めようとか小馬鹿にしようとか、そういった思惑は一切ございません。


こちらに掲載させていただく理由は次の理由からです。一つは、より多くの皆さんに震災について御認知いただきたいということ。(高飛車過ぎですね…。)二つは、この未曽有の大震災を、一生心に繋ぎ止めておくための自分なりの整理の仕方としてです。「興味本位だ」などというお叱りを受ければそこまでですけれども、何かしらの形で記憶に残さなければ、体験の共有は不可能だと思います。僕一人だけの体験としてではなく、知人、家族、その他関係するすべての人々にも同様のことを述べてきました。


そういった事情ですので、御気分をお悪くされた方は、ご覧にならないでください。



一番左は、海です。通行止めの看板が立ててありましたが、大丈夫と判断し、撮影しました。まだまだこの暗い海の中で、亡くなられた方がいると思うと、居た堪れない気持ちになります。


その次は、もう少し近づいてみた海の写真です。写るのは、恐らく決壊した堤防かと思われます。


3番目は、移動中撮影させていただいたものです。作業にお伺いした際も、こうした風景のところでした。あたりには何もありません。


一番右の写真は、沿岸地域で撮影した工場跡地か何かのようです。海水がガラスを突き破って、浸水した様子がわかります。

 この約10日間あまり、俺は震災ボランティアで宮城県に入ってました!
いやいや、非常に貴重な経験をさせていただいたと思います。活動的には泥かき全般ですが、今後は仮設への引っ越し作業とか増えるそうです。土日は特に新規で並ぶ人が多かったです。こっちは大学ある立場で、わざわざ参加したんですからね。我ながら、アホやなぁと思います。


 まぁ、でも息の長い支援体制を作っていくためには、こういうアホも必要ではないかと思います。漫然と大学や職場に通っているだけで、何のアクションも起こさないようなやつよりましだと思いますしねぇ。そんな人間が、会社の面接官してたとしても、こちらから願い下げだね。俺が知り合ったお兄さん方は無職だったけれども、目は死んでなかったよ。


 いずれにせよ、被災してまだ2カ月余りしかたっていないというのに、ゴールデンウィーク期間中の熱心ぶりには、心底心を打たれたぜ。。。それが明けたら最後、突如としてやれ学校だ仕事だで要員が急減したわけだからね。まぁ、誰しもが使える時間というのは限られているわけだから、しょうがないか。。。


一枚目 ソクチャンの寺院で(名称不明)
二枚目 チョロン市場バス停付近。
三枚目 バイクタクシーで行ったアンドン市場。1階には東日本大震災の募金箱が…。
四枚目 チョロン周辺。



ベトナムでは、何度もバイクタクシーのお世話になった。市内の交通にはこれが一番便利。
別にこっちが乗る気がなくても、「乗るか?」とひっきりなしに声を掛けられる。


最後の日には、ホーチミンのバスターミナルからチョロンまで行き、そこからバイクタクシーを乗り継いで
アンドン市場何かに行った。その後バイクタクシーで天后宮というお寺へ
半端なく長い線香(小乗仏教だから?)で、煙臭かった。ひとたび入ると京都のお寺のよう。


正午過ぎ、ホテル近くに戻った。最後の日ということで気が緩んでいたのか、靴磨きの青年二人組に騙されてしまい
危うく50ドルを持って行かれそうになった。大喧嘩の末、ポケットに突っ込んであった有り金のドン紙幣すべてを
彼らにやった。今思うと、いい天罰だったかもしれない。


年齢を尋ねると「20歳」と言っていたから、ろくに教育も受けないで、外国人をだまして生きてきたのだろう。
生きるためには貪欲であらねば。。


到着当日に撮影した市内の様子

日帰りのメコン川クルーズでの風景

長距離バスでソクチャンまで移動中

ソクチャンのカレン寺院にて


コウモリ寺。日中にもかかわらずすごい量のコウモリ達


チョロン市場の朝の風景

アンドン市場上空より

今日、ベトナム旅行から帰ってまいりました!
今回海外旅行は2回目ということで、こちらを選びました。4泊5日ホーチミンの短い旅だったけれど、かなり充実した旅を送れたと思う。

初日、ホテル近くにあるシンツーリストにて、メコン川日帰りツアーを予約。ホテルでもツアーはあったが、高かった。残った時間で、少し市内観光をした。バイクの多さにびっくりしたのと、バイクタクシー&物売りのしつこい勧誘に圧倒されまくった。ディナーは、デタム通りにある小洒落たバー(と言ってもオープンバーのようなとこ)で、サイゴンビアとスパゲッティを食べた。


2日目のこの日は、ミトーまでメコン川下りをした。バスで進むこと2時間弱ぐらいだったろうか?行動が束縛されてしまうツアーにはあんまり参加したくなかったが、とりあえず参加してみた。ツアー同行者には、フランス人の女の子、韓国の社員旅行の団体さん、台湾の金持ちのおばはん連中がまじっていた。韓国の方からは、地震のことについていろいろと英語で話をした。ツアーが終わったのが、5時か6時で、お腹がすいたので、かねてから行きたいと思っていたレストラン「Quan An Ngon」でディナー。定番のフォーやら生春巻きなどを頂いた。


3日目は、早朝5時ミエンタイバスターミナルから、Soc Trang(ソクチャン)に向けて出発した。どうせ行くなら、外人が行くありきたりな所より、あんまり行かないところがいいだろうと思って、長距離バスで片道7時間かけて行ってきた。ガイドブックには3時間半とあったので、いつまでたっても到着しないので冷や水を垂らした。何せ、バスと言っても途中で物売りがどんどん乗ってくるわで運行が一時的にストップしてしまったりした。こちらがいくら顔をそむけても、パンやらガムやらサングラスやら、いろんなものを売りつけてきた。ソクチャンに着いた。そこからが問題だった。カンボジアにほど近いところで、周辺には何にもない。ぶらぶら歩いていると、露店を見かけた。そこのおばさんには、食べるものを御馳走してもらった。ガイドブックを見せると、お隣からお父さんが出てきて、バイクで一通り町全体を見せてもらった。日本から来たというと、よっぽど珍しい様子だった。また町には、クメール人が多く住んでいて、女の子はかわいい子が多かった。その代わり、町全体がややだだっ広いので、知ってる人について行ってもらった方が、面白いと思う。


最後の4日目は、早朝6時に出かけて、バスでチョロン市場まで行った。この日は生憎の雨だったがすぐ止んだ。しばらくぶらぶらして腹が減ったので、屋台の惣菜パン?(なかにトウガラシ、キュウリ、ハム、大根の漬物などをはさんだやつ)を食べた。意外に美味。そして、バイタクで、アンドン市場まで行き、土産を買う。アンドン市場は、衣料品が一同に揃うデパートみたいなところだった。そこでも優しいお姉さんがいて、洋服用の布やらを大負けに負けてもらった。値段交渉は当たり前ですね。そしてバイタクで、バスターミナル近くのお寺さんに連れて行ってもらった。入ってみると、欧米人ばっかり。それからまたしばらく歩いて、ベンタイン市場まで戻った。そこでTシャツを値段交渉して購入!意外と安く買えた。しかし最後にみそをつけたのが、靴磨きだった。頭痛を催したので、近くの広場で休んでいると、二人組の靴磨きの青年が。親しげに英語で話しかけてきては、勝手に靴を磨きだし、50ドルを要求された。ムカついたので猛抗議の末、有り金のドンと1ドル紙幣を持って行かれた。今度からベトナムでは絶対に靴は履かないと決めた。後は、機中泊して、予定通り帰ってきた。全然眠れなかった。


今度は2〜3週間ぐらいで、アジア数カ国を回れたらと思う。ひとつの国をじっくり回ってみるのにこだわってきたけれど、もうそれだけでは物足りなくなってきた。
 

 先週土曜日、とんでもないことが起こった。週1で祖母の家に手伝いをしに行くのだが、その祖母がトイレで倒れていたのだ。

 まず、中に入ったときがヤバかった。灯油は撒き散らされてるわ、靴箱は開いたままだわ、部屋中衣類が散乱しまくって、何が何だかさっぱりわからなかった。まるで泥棒が入った後のようだったのだ。とにかく、トイレでうずくまっている祖母に大声で呼びかけた。すると、うつ伏せの状態でブツブツしゃべっていた。かなり異様な光景で、後に慌てて自宅の母に電話し、救急車を呼んだ。

 実は今年の7月ぐらいから、「家の中に誰かいる」などと言い出すようになり、認知症であることが発覚。

 とうとうここまで進んだか、という感じ。優しい人だったですけどねぇ。徐々に人格的なものが破壊されていく感じで、そう思うと悲しい。だが今は楽しい思い出しか残ってない。進行を止めることはできなくても、ある程度抑えることは薬でできるらしいから、急に死ぬことはないと思う。