今日、現在公開中の映画「母べぇ」を見に行った。エンディング部分は製作側の技量不足を感じてならない。どうしてあそこまで最後の別れを美化して描く必要があるのか?
 かつての日本は一人の人間の死を大勢の家族で看取るのが普通だった。確かに現在では死に場所を選ぶことはかつて以上に困難になったと言える。いわゆる死の隠蔽である。
母べぇは最後の最後に病室で息をひきとる訳だが、死に立ち会うことが出来たのはほんの数名だけだった。戦時中に気丈にも二人の子を育て上げ、まさに絵に描いたような伝統的な日本の家族象を映し出す。そして病室で死を迎える。ここで大抵の人はホロリとくる訳だが、私には誇張し過ぎに感じた。あんなに死を美しく描くのは卑怯だし、奥の手とも言っていい。散り際は偶然に起こって当然のはずなのに、やはり時代感覚のズレだろうか。全身がムズ痒くなった。実話なのかどうかは知らない。
 意地悪を言わせてもらえば、いかにも美しいものや英雄が目の前に現れ、絶対に同じように感じなければならないという、ある種の感動のコントロールが人情だろう。水戸黄門も黄門様だと初めて分かって扱いがコロッと変わってしまう。美しいものは確固として眼目に存在し、一度は見たり聞いたりして知っている。知っているからすんなり馴染む。
 まあでも、映像技術だけは誉めたい。風景を通じての時代描写は細部までこだわりを感じた。治安維持、思想統制、軍部の圧政など戦後まで長く続く歴史は簡単に清算できるものではない。最近そういう意味でも戦争を舞台にした映画が随分多くなり過ぎた感がある。(善いのか悪いのかは別にして。)