選択の本質は捨て去ることにあると言うが、いつもいつも合理的な選択が正しいわけではない。よく日本人は「〜される」とか受け身的な表現を好む傾向にある。そこには「〜される」と感じる自分はいても実は他者がいない。
 人は誰かのために何かをやるとそれ相応の見返りを期待する。必ず期待する。理想的なのは何も見返りを期待しないインフォーマルな社会的つながりのなかにおけるコミュニティである。
 以前うちの近所で子どもの下校時、ミニパトが「家には真っ直ぐ帰りましょう。」とアナウンスを流していた。たったこれだけでも、地域の安全、犯罪の抑止力に少しは役立つ。少なくともそこに「与え」·「もらい」の循環が働いている。信頼と安全を売り、子どもや親が安心してそれを手に入れる。もちろんお金を払わず目に見えないサービスとして。
 この与えるだけで必ずしも見返りを期待しない状態を一般的互酬性という。ボランティアなどの組織が一番いい例かと思う。日本はどうか知らないがアメリカ人は組織を作るのも参加するのも好きな国民と聞いたことがある。なるほどその通り、組織は増えた。が、一向に参加者が増えない。実は、これが有権者投票率の低下を招いている。
 アメリカ大統領選、賑やかだがあれほど誇大広告を打ち出し、キャンペーンを展開するということは、政治不信がよほどの危機的状況に直面しているとしか言い様がない。もしかしたら、テレビによく映るスタジアムの観客もヤラセではないかと思ってしまう。
 どれだけ優秀な制度や組織が集まっても一人一人一人が動いて「〜される」側から「〜する」側にまわらないと変わらないと思う。