この世界にことばがなければ、どうなるか?無論、他の人と考えや感じ方を分かち合うこともできない。そして歴史も消滅する。逆に言えば、歴史はことばなくして成り立たないわけで、人間も初めからそこには存在しないことになる。だから、ことばがなかったら、などと考えるのは恐ろしくて仕方がない。でも、歴史が消滅に向かおうとしているとすれば…。
 ボードリヤールの本に驚くべきことが書かれていた。「芸術に何らかの価値を与えるようとするためには無用性を与えればいい…芸術も消滅したのだ」と。ケータイの絵文字の羅列は、ギリシャ文字のようで読めない。あれを使いこなす人種はギャル(死語?)と称され、あの羅列を解釈できるのは、同族人種(同じ社会の価値を有しているもの同士)だけある。社会全体の大きな流れとしては消滅しても、同じ社会では生き続ける。したがって、われわれは同じ年代、地域、特性をもった社会からはどれだけ足掻いても抜け出せない。言うなればそのほうが安心であり、不自由も苦労もない。したがってわれわれは知らず知らずのうちに安全圏をつくってしまい、異質なものは徹底的に排除しようとする。ボードリヤールはこれを言いたかったのだ。つまり、個性を押しつぶしたかたちでしか生き残れない人間は、芸術もすべて同じものでないと気がすまなくなり、われわれは不文律のようにそういう考えに従うかたちでしか、もう生きてはいけないのだ。あらゆる個性の突出が避けられるのはこのためである。われわれは自分にないものを求めるより、誰にでも潜在的にあるものを選んだ方がよい(無用性)に気がついたのだ。
 ことばがなければ、考えることもしないから、考え方にも個性がなくなる。現代人はそういう意味で、人類が何万年も築き上げた文明そのものを自らの手で壊そうとしている。そんなところに歴史など存在するわけがない。