最近、三島由紀夫の本を読んでいて気づいたことがある。彼の天皇観だが、やっぱり文化人だなと思った。彼の天皇観はこうだ。つまり、天皇が象徴するところは日本という国そのものの文化や伝統であり、他ならぬ象徴のための象徴が存在しているのではなくて、あくまでも文化を統合する象徴としてあると。もし象徴のために存在するならば、三島に言わせれば何の文化も伝統も持ち合わせない国である、みたいな言い方だった。三島の天皇観をめぐって、必ずセットで唱えられるのは防衛構想だ。「若きサムライのために」を読めば、ずいぶん早い段階から(死の直前とするべきか)本格的な防衛構想があったらしい。やれ自衛隊の数を増員しろだの、防衛意志を大切にしろだの言っている。
 まあここで紹介されている議論は、冷たい言い方になるけれども、安保問題の延長にある問題意識として突然出てきたようなものも多い。時代ですなぁ。でも、沖縄米軍基地の問題が、最近でも再燃しつつあるが、ほとんど未解決のまま放置されている現実もあろう。朝鮮戦争のために、無理やり補給地に選ばされたほうにとってはたまったものではない。アメリカにナメられた国として、今主張すべきは何か?そういった現代に通ずる問題提起を残しているという点で、彼の主張は捉えどころはよかった。だが、時期が悪かった。それに浅はかな天皇観だった。あの西尾氏にしても、天皇家の危機を声高に叫んでいるが、その具体的根拠は?勘違いしてもらいたくないが、象徴は必要だし、皇室制度も改正すればいいと思う。ただ、天皇観の世代間の摩擦は避けられないし、時代にあった共通の天皇観が用意されていない。これが最大の問題だ。つまり、知識人が上から押さえつける天皇観はいつの時代も危険であり、象徴には違いないのだから、個人の自由な解釈でいいと思う。でもそれをやるから、頑固な知識人たちはバラバラのことを言い出す。じゃあどうするか?個人の裁量に頼るしかないといったところか。。賢い個人が育たないことを言い出すと、政治的無関心につながってしまう。