自我はタマネギだと言われるように、いくら皮を一枚一枚丁寧にはいだところで何もならない。しかし、日記は違う。このように書き綴るのは、日常あったことを話すためでもないし、(今や隣人すら誰かもわからないのに、ネットに溢れる個人のタワゴトなどに誰も興味あるまい)特別強い関心や影響のためでもない。かたちにならぬ自分を、その日その日で切り取って、スクラップブックにする作業、これが日記の果たす役割だと思う。そこには保存の機能が働いている。自分の場合なら、自己保存機能の究極版とでも言おうか。もちろん、誰かと話せれば、それが一番いい。しかし、自分の場合は一人っ子で育ったという環境から、どうしても一人の時間が欲しい。
 一人っ子だからかどうかは別としても、孤独は誰しもが愛し、また求めるべき状態ないし時間であるとすれば、およそ孤独を愛さぬ人などこの世にいないのではないか?ただし、ここでの孤独は単に一人である、とかいったことではない。冷静さを取り戻すためのなくてはならぬ時間をさす。ヒートアイランド化しているのは、地球だけではない。無数のかたちにならぬ流動的な自我を別な体裁をもって保存すること。孤独でなくては絶対に成り立たない。しかしそうした時間も、後から振り返ってみれば、なんと無駄な時間だったのだろうと冷めた感じになる。つまり、人と話す時に表出する自分と、一人でいる時の自分とのギャップ。。これが大きいほど、本当の自分を見失って、人は「タマネギ」剥きを始める。必ずしも日記という体裁を取らないまでも、あるいは保存しなくても、ふと思いをはせる。
 だから、自分にとって日記は熱を帯びて、流されていくままの自分をせき止めておく最後の砦、ということになる。偽らざる本性と対面する時間ないし場所を、本当の意味で持つ余裕のない現代人はかわいそうだ。押し殺すことを強いる代わりに、冷却時間を持つ。持てないなら探す。そうしないといられないのは、女子高生プリクラの心理にも似ているかもしれない。写真も言葉も本性を写し出すからだ。