今日は我が誕生日。23になってしまった。今年こそは新しい年にしたい。中国がこれから旧暦の正月を迎えようかとする時に生まれたことになる。年は取りたくないね。本当。まだまだやり残したこといっぱいあったのに、十代は何もできなかったし、成人を迎えて3年経つというのに、それらしいことは一切してない。否、してないではなくてできなかったからだ。勉強ばっかりで、同年代の人々とは完全に断絶してしまっている。まあ、苦にはならんが、楽しいこともないな。今思えば。別にこの年だから楽しみなさい、とかこの年だから苦しみなさい、とか人から押し付けられるものでもないし、自分のやりたいように生きるだけさ。「我思う、ゆえに我あり」の自己完結の境地。テスト期間中で、俺自身忘れてたのに、覚えていてくれたのは母親だけだ。だが憎むは我が誕生日。今までやり残したことだらけで、やりたいようにことが進まない。見方を変えれば、子どもの頃に描いていた夢の通りに人生の進む人の方が、おかしいわけで、最終的にはそこに行き着いたような人でも、行き着くまでは相当の苦労がいったはずだ。その人相応の苦労を積んだ人でも、とりわけ芸術で生き残れるのは一握りだろう。特に、作家などは芽が出るのが遅いから、苦労も一塩に、ないしは通過点にしか過ぎない。しかし、目標立てて生きているつもりが、実は人と同じ人生だったと思われるような生き方だけはするな、と親から言われている。どうせ一回しか生きないんだったら、人と違った生き方のほうが良いに決まっている。ただし、節度ある限りで。そういう意味では俺は幼い頃から、何でも自主的に決める権限を与えられてきて育ったことになる。恐らく普通の人よりか、一人で決めることが多かったように思う。それが却って楽なのだ。逆に何でも勝手に決めてもらうのは苦痛でたまらないし、自主的な判断こそ優れた人間だと思う。親の言う通り、期待通り育つのも、一つの生き方として推奨するが、そればかりでは一度壊れたら再生がきかなくなるよ。愛知県でトップの成績の母親の友人の子どもがいたらしいが、おかしくなって麻薬に手を染めたのが何よりの証拠だ。親の期待通り育った子どもほど、不幸になる確率は高いと言える。