村上春樹を読むといつも心がからっぽになってしまう。そして幸福観が揺らぐ。幸せとはどういう状態のことを指すのか?希望の学校に入り、就職し、家庭を作り、子どもを作り、という幸福観念が崩れた今、何をもって幸せを定義できるのか?
 究極を言えば幸せは主観に基づくものかもしれない。あるいはアリストテレスの言うようにお腹いっぱいまで食べないでほどほどにしておくことが最高の状態かもしれない。誰も一人でLサイズのピザを100枚も食べることはしない。それはそんなことをすればお腹がはじけて胃袋が使いものにならなくなると知っているからだ。つまり、自分が満たすことのできる満足の限界量を知っているからだ。でも幸せは本当に主観的なのかどうか?
 隣の芝生は蒼いというが隣の人と同じでないとソワソワして落ち着かないのが日本人だ。でもそんなものは幸せとは無関係だ。ファッションから思考まで誰かと同じでないと自分が人間でないと思い込むのだ。それが群集のなかの誰かさんでもよいのだ。それがひいては安定につながり和やかな雰囲気を生む。
 われわれは同じ思考を共有する。それも多額のお金を支払ってまで。頭の隅々まで同じ想像力が支配する。いや、やがては発展途上国までもそれは支配するだろう。残念ながらわれわれはどう足掻いてもそれらから逃げることはできない。個人の想像力はいとも容易く奪われていく..新しいアイデアがなかなか生まれないのはそのためだ。
 今までさんざんライフスタイルの標準化について述べたが幸せも最終的にはこういうことのように思う。日本にいると幸せがオーダーメイドされていないのだなとつくづく感じる。求める幸せは違って当然だ。だから明日から突然アフリカに住みたいと思えばアフリカに行くのもありだ。誰かさんたちの思考にお行儀良く従う必要なんか全然ない。したがって幸せは主観的であることに加え、選択的で強烈な自己責任を伴うのである。