今日は久々に祖母宅へお邪魔した。亡くなった祖父の蔵書探索のため、二階へ。すると、技術系の本の裏から松本清張森村誠一がたくさん出てきた。
技術屋さんは違うね。やっぱり。推理小説同様、技術屋の仕事もそれ相応の鋭い観察眼や思考力が試されるのかも。その後、お昼をもらい5時前に帰った。
 帰る途中、「きっしょ〜い。」と聞こえ、振り向くと歩きながら携帯で話す女がいた。その人は自分の世界に没頭してたらしく、誰はばからず大きな声で話していた。
 善哉、ああいう行為が公私のごっちゃなんだなと思った。要するに、私の公への介入のことだ。例えば、いちばん分かりやすい例が「ながら運転」だろう。あれは本当に危ない。こないだも自転車を運転していて前からきた高校生が携帯の「ながら運転」をしていて危うく正面衝突しそうになった。ああやって自分だけの場所のように振る舞う人間が増えるほど、公私における不確定と道徳的配慮の欠如が深刻化する。自分だけ良かったらそれでいいのか。
 そうかと思うと一方で日本はますます高齢者人口が増え、最新のテクノロジーについていけない暴走老人が出てくるというのもある。一定の社会規範はこれ!って決められると物凄く排他的になることが多い。それじゃあこういう規範はもう古いからこうしよう、などとやってると生産性が落ちるではないかと吠えたてる人々もいる。私たちが社会と関わっていくなかで変えなくちゃいけないものと、変えられるべきでないものとが多過ぎるのだ。例えば、エレベーターの乗り方一つわからない老人がいたからといって、日本中のエレベーターをぶっ壊すわけにはいかない。
 やはり公私の調整が効かなくなるとあらゆる不利益を無抵抗に被る事態が生じてしまう。