三島由紀夫豊饒の海シリーズを読んでみて一言。本多は全てにおいて一貫したアラヤシキを有顕の幻に求め、生まれ変わりと信じてやまない勲もタイの王女も透も本多の妄想のなかで完結している。永遠に本多の心を捉えて離さなかったはずのその幻は老いとともに失う。
 三島は結婚したが同時にホモセクシャルだった。(つまり両党遣い)本多はその投影であり、自らの行く末でもあった。つまりあの豊饒の海というシリーズはどうしても本人の回想録のようにしか思えてならない。遺書ともいっていい。あえて登場人物を過去、現在、未来に振り分けてみるとよくわかる。過去にあたるのが有顕、現在が(自決する直前のころ)勲もしくは透、未来が本多。三島は本多を最後まで生きることなく自殺しちゃったけどもきっと心のどこかにそういう思いがあったのではないかと思う。死に対するとてつもない不安は肉体改造に走らせた。
 それと美しい死への執着、例えば戦死のように戦場でお国のために華々しく散ることが彼にとってはあるいは勲にとっては理想的な死であるし、まさしくそれが古来始まって以来日本の武士のしきたりでもあった。どうせ病気になって死んでいくくらいなら、大義をもって散るのがいいとしたのだろう。俺はこれ以上議論はしないし、賛成も反対もしないが三島文学を通じて日本人が失った伝統的思考に思いをめぐらすことも偶には必要かと思う。現代が思考停止に陥っていると考える人にオススメ