人間文化、精神文明の退廃に一連の懐疑を露呈し、告発するのが自然主義文学の役目なのだ。それを思うと耽美主義の目指さんとする目標の焦点がよく分からなくなってくる。美を褒め称えるだけではっきりとした意図が感じられない。
 自然主義は「ああ、こうなる前は人間はもっともっと気丈だったのに」と警鐘を鳴らすのに対し、耽美主義は被虐趣味フェティシズム一辺倒だ。美的な追求が最終的には「破壊」や「死」につながってしまうと三島先生はご自身でそれを体感されたわけだ。
それはそうとこのテーゼはまさしく今の状況と同じ。同じものを着て、食って、住んで、同じ商業的な創造物で笑い、泣き、喜びを繰り返す。そういう意味でこの国はウェルズが描いたように共産主義に毒されたくされ国家であり、それに気づいた少数のものたちはのけもの扱いされてしまう。「えっ、おまえ何言ってんだよ。まだオレたちの仲間外れがいたぞ。追い出せ」と群集の目が訴えている。
 よく携帯小説とかいって、虫メガネを使わないと読めないような小さい画面に夢中になっている人が多いが、面白いですか。あんなもんが。サルにしか見えないですねぇ。サルの健康が心配。商売に騙されてるサルの。アタマの中が共産主義に毒されて。あんな短いものに一辺の文学的価値が見いだせないし、深みもない。第一、あんなのでは雰囲気がない。携帯にいろんな付加価値つけて、儲けさせる戦略。誰かが得しないとあんなことしないでしょ。
要は言いたいのは世の中、必ず誰かが損して得するように出来ているってこと。共産主義はみんなが同じように栄え、滅びる思想。みんなが携帯持てば、幸せになるけどみんなが同じ問題に悩まされているはずだ。幸か不幸か俺は持たないから知らんが、最初は首輪ぐらいの機能しかなかったと思う。これからはじいさん、ばあさんが首輪につながれた犬の役目を負うことになる。50年もすればハイテクじいさん、ばあさんが出て来ると思うとへどが出るな。