もう観念のくだらないお遊びも飽きた。誰も聞いてないし。俺が何者なのか?言葉を話す、書く、読む人間、地球人、男、日本人、万年浪人生、昭和生まれ、女ではない方の性を持つ者、20代、、何ら他者と区別するものはなにもない。空の空。世の中空。最後は空。絶対空。明日も空。明後日も空。50年後も空。1000年後も空。
 男も女も単に互いの顔を区別する記号でしかない。肉体を単純に区別し合っているに過ぎぬ。どんな人間にも目は2つ、鼻は1つ、口は1つ、耳は2つしかついてない。なのに、一体何を区別する?同じ人間で、パーツの大小の差こそあれ何回数えてもパーツの数は一緒。肉体と肉体とに話が及べば、もうこれは無記名と無記名でしかない。
 言論も同じことで、われわれが得意げになって話すことは過去の誰かがもうすでに述べたこと。名人のお習字を達筆に真似ているだけ。こと、テレビという媒体手段はファシズムでどんな意見も一本の糸による。素直な大衆にはそれを展開し、批判する能力がない。だから考える力も身につかない。一定の思考パターンしか出来なくなるからテレビは嫌いだ。流行も、明日の人生も、好みも、喜びも、悲しみも、すべてがパッケージ化されてしまっている。安売りされている。俺はそれを見抜いた。とっくに見抜いた。騙されはしない。何も信用もしない。
 そういう凝り固まった民主的国家形態のなかで、おしくらまんじゅうのように、ああでもないこうでもないと、同じ意見の応酬しか繰り返せない人間をみていると、モザイクの絵に入り込んだ気分になる。