墓参り無事に済んだ。そのたびに思う。一人っ子として、この墓盛りは将来自分がしなければならないことを。うちは母もたまたま一人っ子だ。だからというわけではないけども、周りからは一人っ子は自立が遅いとか考えが甘いとか、よく言われてきた。考えてもみれば、お菓子を奪いあうことも知らないし、ケンカの経験もない。母も一人っ子という事情から、お互い兄弟のような感覚で育ったような感じ。これは確かにある。しかし兄弟にしては年が離れ過ぎているし、そんななかで争いなどすれば、勝敗は明らかである。虐待にもなりかねない。だから、親も子の扱いにさぞ苦労したことと思う。
 ただ、母にはいとこがいた。二人とも俺より年下なので、その子どもらと法事で集まったときには、よく面倒をみていた。それでも兄弟の実感からはほど遠かった。いまさら、親に頭を下げて兄弟が欲しいなどと愚かなことは言わないけれども、実感乏しき青春を送ってきた原因の一端には、争いの不足があるように思う。争いの不足。人は鏡に映った自分を、他人を通じて確認するが、争いが少ないということは、必然的に人と接触する機会が少ないことを意味する。ないしは自分で然るべき環境を見つけて、その機会を見いだすことを要求される。つまりはごく身近ななかでしか人間関係の意味は知り得ることはない。最初のうちは。
 身近というのは、つまり大人達しかいない環境のことだ。生まれつき何もしないでも、大人が何でもしてくれる。話を聞いてくれる。だから今でも、交流を持つのは同年代ではなく、年上ばかり。そしてそのほうがしっくりくる。だから、人間関係が身近な大人達に限定されやすい一人っ子にとって、他の同年代と意見が違うような人は、ぜひ年上とどんどん付き合うことをお勧めしたい。