うちの近所でもお祭りの賑やかな音がする。お祭りなど10年は行ってない。お祭りで集まる人々はただの群集か、あるいは何らかの意図、目的を持った集団なのか?社会学ではよくこういう問題を扱う。つまり人は家族など親密性をもつゲマインシャフト(共同体)からゲゼルシャフト(社会)へ移っていくわけだが、この議論はそのあいだを規定していない。つまり共同体でもない、組織でもない、その中間の議論がなされてこなかった。人の一生は、そんなに単純な移行ではすまされない。また、同じところにずっと止まっていることも、無理がある。(無理なことではないが。)
 しかし、お祭りは違う。お祭りはコミュニティを中心とした親密性のやや高い集団であり、互いに名前は知らないが、どこかで見たことのある人々が大勢集まる。日本において場の共有ということがどれだけ大切かがわかる。昔、有名な人類学者が言った。欧米人は資格を共有するが、日本人は場を共有すると。つまり、欧米は個人主義、日本は集団主義である。日本も徐々に欧米型の個人主義に移りつつあるが、それでも田舎はまだまだレンコンのように先の見通せる閉鎖的、保守的な世界である。閉鎖的な社会ではなるべく付き合いは限定され、排他的である。歴史的起源は置いといて、お祭りは排他性から生まれたと思っている。場の共有とは、やっていることがお互いのあいだで、想像できる世界を言う。予測可能なわけだ。日本人は特に想像の範囲内で行動することが得意な人種なので、人間関係もその範囲内で限られる。先輩と後輩、上司と部下、殿様と御家人、町長と住民、など。関係は無意識に規定される。
 したがって、お祭りは集まる目的も関係もはっきりしていて、中間的な集団を想定している、排他的、閉鎖的な世界のイベントである。集団で盛り上がるのが大好きな日本人は、サッカーの過熱度をみればよくわかる。ただ、「集まる」ということだけをみれば、宗教的ニュアンスも加味される。