さっきまでけたたましい雷鳴が轟き、合戦の合図の大砲のように、豪雨になった。これから低気圧は尾張の辺を通過するという。今日は思い切って休むことにした。
 三島は早くから自死の誘惑に駆られていたらしい。ある劇作家の解釈論によると、即ち、「死」は三島にとって自尊心を活かすための手段であって、マスコミなどが騒ぎ立てる目的としての「死」は完全に否定される。自尊心と精神はほぼ等価値であり、それに比べて肉体はそれほど重要ではなかった。ここがアンビバレントなのだが、つまり三島が肉体改造を始めたのは、単に美しい肉体を得るためではなく、この精神にも主張の機会を与えたかったからだ。ちょうど、「ライ王のテラス」のラストシーンのように。
 だから、三島の死をめぐってマスコミをはじめ数々の勘違いから、過激な右翼論者としての三島がアップされるが、あれはあくまで「平岡さん」であって、文人「三島」であって欲しくない。タレント、俳優、知識人など三島の持つ幅広い顔については有名だ。しかし、自決が三島にとって唯一の身の処し方であったのならば、何を目的とした「手段」としての「死」だったのか、大いに謎である。ゆえにマスコミなどの並一通りの解釈は欠陥だらけで、本質としてのあり方を投影していない。もし肉体改造が、映画「憂国」のように、鍛え上げたその肉体に血しぶきを上げる激烈な「死」を遂げるためだけにあったとするなら、通俗的な言い方だが早いうちからある種の破壊願望に似た動機があったのではないか、と思う。三島にとっては、肉体を否定することが、精神ないし自尊心の永久的な存続につながる、と考えたに違いあるまい。
 その意図的「手段」としての自死が今なおその死が神秘化される理由の一つかもしれない。