昔、日本は鏡のない国だったようだ。俺は日本中の今の鏡がなくなって欲しいと思う人間の一人だ。別に鏡が嫌いなわけではないし、ないよりあったほうがいい。今となっては。しかし、自分の顔を映すくらいなら、池のほとりの水面に思い切り顔を突き出して、思う存分己の顔を見ればいい。つまり、鏡のないころは生涯自分の顔を知らずに終わってしまうことも珍しくなかった。……ところが、今は鏡だらけだ。球場の大型スクリーンは野球選手の全身を映し出すし、街を見渡せば、化粧品で溢れ返っている。鏡は一見真実を伝えているようで、本当は真実の半分も映し出していない。
 鏡に加え、もう一つ増えたのは、知の外置だ。近代以前まで知は、メディアのなかに閉じ込められていた。インターネットにより、大量の知が共有され、境界がなくなった。鏡と知、違うようで似ている。鏡は、ハンマーでカチ割ることはできても、目に見えない知は簡単には壊せない。むしろ、増殖する。鏡は、作られた虚像を映し出すが、知は代々受け継がれていくために、真実しか映し出せない。ましてや交換など効かない。知はウソを淘汰する。鏡は、そんなウソを優しく受け入れてくれる。
 人は、いつしか鏡に映った自分を美しいと思い、素顔の姿を醜いものだとした。何が?近代以降の社会が、だ。ショーウィンドーに映った自分をキレイと感じ、汗水垂らして必死で手に入れた情報よりも、向こう側から自然にやってくる情報だけ、受動的に受け入れるようになった。鏡も、最近流行りの人工知能も、人間の最終的な判断を他の何者かに委ねるために、意図的につくられた錬金術だ。事項の決定装置の機能が働いている部分は同じ。鏡は人工的な顔を映すもので、だから女性は鏡に映った本物を、偽物と自覚する。化粧によって。最近の男性もそうだが。
 おそらく日本中の鏡をぶっ壊しても、みんなは偽物を信じるだろう。そこまで、イカれてるんだな。