19世紀のヨーロッパ、特にイギリスやフランスの街中は、鼻がねじ曲がるほど酷かったという。今みたいに上下水道もなく、ドブには医者が使った血まみれの注射器が散乱していたという。しかし、今日の経験は現代に蘇ったドブだと思った。普段、自宅で勉強することがどうしても多くなるため、公共機関は使わない。駅前で次の電車が入ってくるのを待っていると、物凄く臭い香水を振り掛けた女が近づいてきた。はっきり言って、迷惑だった。否、あれは香水ではない。ただのドブだ、と思った。ドブをいい匂いと感じる神経を疑ってしまう。タバコを吸う人と同じように、匂いの発生源が張本人であることは知らない。その点匂いは感じる主体と客体とは切り離したところで存在している。だから、その臭さは本人は気づくはずもない。欧米人に比して、日本人は体臭には無頓着と思える。欧米人は、いい。彼らは習慣上、風呂にも入らないし、ワキガもひどいから。香水は何の役に立っているのか、わからなくなった。
 随分、イヤミを言ったが、それが目的ではない。感覚器官までもが、欧米人みたいになりたくない。これを恐ろしい価値観の押し付け、イメージの暴力と捉えるか、あるいは流行など軽いノリと見るかは千差万別だ。ただ、いかれてしまったのは実は香水でも、それを嗅ぐ方でもないかもしれない。確かに、それをいい匂いと感じるのも、臭いと感じるのも、感じる側の自由だし、文句があるなら注意すればいい。しかし、今の我々の暮らしは良いイメージばかりが先行して、無理やりそれに支配されているとしたら?自由に選んでいるつもりでも、すべてあらかじめ用意されたシナリオだとしたら?これを果たして、選び取る自由と言えるだろうか?選択肢が常に用意されていて、そこから一つだけ選べ、なーんていうのは試験の世界そのものだね、まるで。次のうち正しい選択肢はどれか、マークせよ、みたいな。ぐずぐず言ったが、世の中にはたまたま選んだようなものでも、常に選ばされている現実からはどう足掻いても抜け出せないし、自分でつくるほどできているわけでもない。産業革命フランス革命の頃はもっと想像力に富んでいたのだ。だから、その頃はまだドブなどなかった。