中学の時の同窓会のお知らせが来た。どうしてああいったものは頼んでもいないのに、勝手に送ってくるのか?言いたいことは言ったぞ、返事はお前次第だ、みたいな佇まいでテーブルの上に置かれていた。軽いノリというか、世の中には相手のことをいちいち考えなくても言い訳のきくモノの伝え方もあるんだなあ、と感心した。どうせ同じようなものを俺と参加するかしないかよくわからない人にも、送っているのだろう。これでは完全に素通りである。相互にコミュニケーション性といったものが全くない。嫌なら「参加を辞退します」と一言言い添えれば、それでいい。駅前でティッシュ配りの兄ちゃんから、安物の紙ティッシュを受け取ったのと同じ無関心さを感じた。ダイレクトメールもそうだ。
 この原因は何だろう?関係が全くないかあるいは途絶したところに、こっそり入り込んでくる図々しさたるものは甚だしい。そんなこと言えば、人と話すきっかけがないではないか、と言う人がいる。だがこれは完全に関係を断ち切られたところには存在しない。我々は孤独なようでいて、人恋しさを求めているのだろうか。日常、通勤電車にゆられるサラリーマンを見るがいい。まさにあれは儀礼的無関心の賜物だ。つまり我々はただの群集であって、そこには親しみも、記憶の共有も、懐かしさも有り得ない。知っていても、(隣人であれ)ただただ無関心を装わなければならない。そこまで人間同士のコミュニケーション性は断絶してしまっている。ただし、冷たい群集であっても、記憶を共有するもの同士なら波長があうかもしれない。めったには出会わないが。なぜなら第一、顔形の印象も違えば、考え方も向かう先も違うからだ。覚えているわけがない。恐らく、今、電車や街で昔の仲間に出会ったとしても、当然素通りしていることだろう。これは仕方ない。