インドで同時テロがあった。何でも、数百人が犠牲になったという。日本人もいた。先日、日本でもテロがあった。年金テロではなく、殺された犬の敵をとるためだったという。この差は何だろう。まったく、精神構造の歪みとしか思えない。我々とは明らかにテロの質が違う。日本人はもっと簡単にテロという言葉を使いたがる。加藤にせよ、小泉にせよ、あれはテロではない。ただの大量殺人である。テロというのは、国家vs非国家を想定したものであって、そこには必ず民族ないし宗教間の争いが加えられるべきである。勘違いしたくないのは、日本人は単一民族だという妄想である。日本人だって実は多民族なのだ。だから、歴史を遡れば争いはあった。一向宗徒の起こしたいっきもテロだ。むしろ、宗教が国家以上に、強力に力を持っていた時代だったのだ。でも、今は違う。
 今は、多民族でも戦争はしません、ということになっている。したがって、争いの質自体が、より小さなところに集中して、簡単には特定できないのが特徴だと思う。地域、人物、動機などがわからず、ブルブル怯えながら暮らさなければならなくなる。これだけ、情報手段が多様化しているというのに、現実には全く逆のことが起こっているのである。小泉容疑者は「結起」のために、一年以上前から、被害者宅の住所などを入念に調べ上げていたという。日本の場合のテロは執念深さも加わるかもしれない。思いもかけない情報も、テロリストにとってはおいしい情報になりうる、ということが今回でわかったと思う。情報保護を盛んに唱えておきながら、その不備が露呈した。
 しかし、いずれのテロにせよ、どこからいきなり刃が飛んでくるのかわからないことは確かだ。恐れながら、我々はいつ誰から狙われてもおかしくない時代に生きている。対策は五月雨的なものでは不徹底に終わってしまうので意味がない。うちの近くでも、学校帰りのパトロールが走っているが、安全が守られるのはその間だけで、それ以外の時間帯はどうするのか。かといって、過剰に守りに入るのは、近所同士の交流も希薄になってしまう。あいさつ程度の付き合いなら、怪しまれずにすむかもしれない。