リベラルはよく非難の対象にされるが、そうした頑な態度が、無思想性を生んでしまっている。テレビでわかった気になる人が多い。ロールズじゃないけれど、思想はさまざまに変化を与えるものだから、修正を加えて、理解する必要がある。だから、気嫌いせずに近づいてみようと思う。アメリカのキリスト教原理主義が、泥沼のイラク戦争に追い込んだ状況と、オウム真理教が陥ったグノーシス主義があまりに似ているので、その検証のためにフェーゲリンを読むことにした。とにかく、アメリカにしろ、オウムにしろ、終末論を唱えて、多数の大衆ないし信者を偽りの方向へ誘導した、という点において、似通っているとしか言い様がない。まあ、ほとんどの人が考えるところかと思う。カリスマ的指導者がいないと、無知な大衆はいい加減な方向に進んでしまう。遡れば、プラトンも、実在としての観念論を示しながら、民の根本的救済に役立っていないとされる。だから、現れの部分を見てみる必要がある。ただ、シュトラウスはちょっとわかりにくいので、まずは政治哲学が復権した時代を考える。オークショットも読めないといけない。特に、彼はリベラルでも保守主義でありながらかつ懐疑論者である点で、珍しい。ただ、彼は政治による救済を批判した。再定義し直したというべきか。たしかに、革命については批判的な人もいる。つまり、伝統や習慣を完全に脱却はできないのだと。それはそうだ。話している言語を無理やり変えようと思っても、無理なように、使い古された伝統の域を脱することは危険かもしれない。しかし、じいさんが支配する政治態勢には一定の危惧が必要だ、という批判もある。どっちが正しいかと、簡単には言えない。結局新しいことを生み出したつもりでも、伝統に固執しまっている、というのは大昔からあるだろう。これはいわゆる日本人が英語、とりわけ西欧文化に憧れを抱きつつも、本当は都合のいいように、解釈してしまっている、ということも説明できる。生物学的に不可能なのに、ネコやらイヌが、人間の言葉を話すアニメを見るがいい。あれは言語の根本的な位置をずらしているだけ。恐ろしき伝統。