作家のW.フォークナーは故郷のことについて尋ねられた時、「愛してもいますし、憎んでもいます」と言った。あるいは故郷に対して、ambivalentな認識を持つ。誰しも一度は経験のあることだと思う。故郷に限らず、自分に対して肯定的な価値観を持って接してくるものを、手のひらいっぱいに広げて退けてしまう感情。逆にいえば、あらゆる物事に対して単一的な価値観でしか考えられない人のほうが珍しいと思う。大嫌いな上司でも、働いている手前ストレートに感情をぶつけることは完全にルールを逸脱している。よく役割コンフリクトなどと言われるように、会社でも家庭でも本当の自分を見せられない人が、世の中に多くなっていることは確かだ。もっと分かりやすい例を出すと、片思いの中学生の男子が好きな女子に反対の態度を示すというのも立派な両面価値を伴った行為だと思う。「ツンデレ」などという言葉が跋扈しているように、現代人は反対の態度を示そうとする。と同時に、どこかでそういう感情をまるまる受け入れてしまっている。
 田舎育ちのミュージシャンは都会で天下を取ると言って離れていく。しかしそれはただ離れていくのではない。故郷に錦を飾りたいという、どことも同居しがたい思いがくすぶっているに違いない。そんな純粋潔白に己だけの天下のためだけに動けるほど人間は器用ではない。嫌だと言いつつもだ。だから心の中でどれだけ反発しても、空中のどこかに押しやってやろうとしてもどうにもならないものなのだ。江戸時代の参勤交代も然り、人間は心の片隅で後先のことを考えて行動する何かがある。ということはこの世に無謀と言える行為など存在しない。
 さて、今日は図書館で半日じっくり本を読んできた。アイルランドの近代史に関する本と、ダライラーマに関する本。いずれも英字新聞で初めてみたトピックで、内容理解のために必ずそうするようにしている。南北アイルランドブリテンの統治下に置かれ、IRAのやきもきした様子が、なんとなく幕末の日本に似ているなと感じた。ダライラーマの本は、新聞に新しい後継者の話があったため。チベット仏教のことは前に一度読んだ。チベットという国も、両面価値(文化的アイデンティティ?)に悩まされている。彼ら固有の文化や伝統と、漢民族の締め付け。しかし若者はジーンズをはいて、中国語を話す。
そうなくてはならないのだ。しかし、これは否定ではない。