昨日は満開の桜をどうしても見たくて、奈良に行ったんですけど。意外と混んでまして。特に外国観光の方たちの一団が。右隣りにはハングルが、左隣には中国語が、真後ろにはフランス語が飛び交うような、そういう異国情緒の中でつかの間の奈良観光を楽しんだ。
最近は、軽音のサークルに入りまして、副部長に選ばれてあれこれ忙しい。一応、ギターは独学で覚えて、人前ではほとんど演奏する機会はなかったけれど、これからは増えそう。最初の手解きは、意外と平凡で。。今日も、サークルの仲間とジャムっちゃいました。どうも、自分は暗めのマイナーブルースが合っているようで。歌を歌うことは初めから抵抗感いっぱいで。ならば、歌なしで演奏ばっかりっていうことになるのかな。(もちろん可能な限り)一応、ライブの日程が組まれた以上、責任もって完成させるためには、中途半端はご法度なので。(もちろん可能な限り)いや〜、ジャムっていいね。ほんと。なかでも、すごく上手な人がいまして。彼と知り合っただけでもすごく貴重だなと。やはり聞いてみれば、ビートルズだの、クラプトンだの、誰もが一度は昇る階段をお互いに踏んでいたということで、音楽的な重なりを感じて日々充実している。今時の曲には温かみがない。全部機械で済まして、本来可能な人間的な作業を無視している。これは、ある種の冒涜ではないのか?作り手はもちろん、聴き手も同様の薄っぺらさを感じてやまないのは当然だろう。商業ベースなんて古い言葉。本当に音楽が好きな人は、とっくに気付いているはずだ。昔のちりちり音のするレコードのほうが、誤って出たフィードバックの音が、出だしでトチッたヴォーカルの生音のほうがよいことを。原点に返るべきだ。ギターはそういう意味で原点回帰させてくれる。作り手の緊張感を絶えず感じさせてくれる。ブルースのスリーコードでもタイミングがずれて、ヘンなとこ押さえていても、お愛矯で許せたりするのだ。(もちろん、可能な限り)