今日は軽音の日だった。そこの部長がかなり強引に我を通す人でして。止めようかと目論んでいる。だって面白くないもん。彼が何もかも決定するのだから、妥協知らずの彼の会だね。完全に。他移ろっと。
 さて、今日は母の日。もちろん帰りは花束を買って帰った。道行く人から「はぁー、今日は母の日なのね。息子は帰ってこないし。今日はお父さんと何食べようかしら。」みたいな視線を浴びた。ああいう時のおばちゃんの目線はすべてを物語っている。ちらっと見ながら、すぐ目を伏せる。俺は23年間も育ててもらって、こんなちっぽけなことしかできないが、働く23歳はもっともっと親孝行しないと。ちょっとえらそうなこと言いました。
 さてさて、再び軽音の話。今日は勉強があって参加できなかった。この旨伝えたら、とたんにヒステリックに怒り出して。ああいう人もいるのね。ひとつ偉くなりました。僕のスタンスとしては、音楽を楽しみたいほうなので、ああいう重たいのはごめんだね…そういう話を他のサークルの子と話してた。確かに、放送大学にはさまざまな人が集まってくる。わずかだが今までもいろんな人と話した。地方から出てきてバイトを掛け持ちでやりながら頑張っている人、教論で資格を目指して頑張る人、実家の手伝いをしながら頑張る人、いろいろ。大人との出会いのチャンスは多い。女の子との出会いは…。 
 ちょっと話を変えて…付き合いにおいて、僕は結論を急ぎたがる男性より、話があちこちに飛び交う女性と話していたほうが落ち着く。関心が散漫という意味ではなく。自分が男性よりも男性らしくないせいか。でも、男性らしい男性を定義してみろ、と言われたら僕は答えに窮してしまう。広い世の中、女性的男性がいても、男性的女性がいてもいいではないか。僕の場合、男性を友人にする時も女性的な人とのほうが話しやすい。これって悪いことか?女性でも女性っぽい人よりかは男性的な人に憧れる。人間は、両面合わせもっているはずだとすれば、すぐに合点がいく。生まれつきの姓は変えようがなくても、後天的な性は変えられるだろう。外観と中身が一致しないというのは、こういうことを言うのだろう。